Coddy is sleeping

ネコチャン🐈です

1年。

#PrayForKyoani

 

もう1年、やっと1年、とうとう1年。

いずれにせよ、1年が経った。

 

 

1年前、「今日」は木曜日だった。

 

午前中に授業はなく、昼飯を学食で食うために南武線に揺られていたときだった。

 

Twitterのタイムラインに、「京都アニメーション」「放火」のワードが躍っていた。

30秒くらい、その2ワードが結びつかなくて混乱した。

 

正直、ボヤ程度だろうと思っていたが、10分もしないうちに状況が一変した。

 

「行方不明者多数」「n人死亡」

そんなワードが次々に流れてきた。

 

グッと体温が下がったような感覚がした。

 

 

 

いつもの慣れで頼んだ大盛りのカツカレーも何だか緩くて気持ち悪く、でも「食事」という「生」に直結する行為を僕が投げ出してはならない、と思いながら流し込んだのを今も鮮明に覚えている。

 

 

フラ語も食環の授業も、正直何をやっているのかさっぱりだった。

ずっと上の空で大好きなクリエイター陣の安否情報が上がってくるのだけをひたすら追っていた。

何も考えず、ただ虚無だけが襲ってきた。

 

 

 

学科で選出されていたアカデミックライティングのレポートもブラッシュアップを行うことなんて更々忘れ、来週に迫るテストラッシュの前でも僕はただ虚無の中にいた。

 

ネット上には「死刑にしろ」「許せない」などの言葉が躍っていたが、僕は意外と終始冷静だった。

 

気はいつも沈んでいたが、それなりに空元気でなんとかやっていた。

犯人がロクでもないクソ野郎であったし、思考盗聴云々の文言には辟易した。

 

なぜ。

 

それだけだった。

 

犯人を殺して彼らが蘇るなら返り血を浴びることも辞さないくらいであるが、現実はそうではない。

どうあがいても、彼らがこの先描く予定だった作品は存在しない。

 

その平板な事実をフラットに受け止めながらも、いやむしろ無感情に受け止めすぎたからこそ、今の今まで苛まれ続けているのかもしれない。

 

響け!ユーフォニアム』という作品がある。

高校の吹奏楽部が舞台の物語で、

昨年の4月に2年生編の劇場アニメーションが公開、

6月には原作小説の3年生編が完結、

7月の頭には3年生編アニメの制作が決定していた。

 

僕はこれの大ファンであり、僕の人生のコアの一部になっているほどである。

 

本当に、ちょうど波に乗っていた作品だった。

 

 

事件の1週間後に西屋太志さんが、1ヶ月後に池田晶子さんが亡くなったというニュースが入ってきた。

 

 

彼らは「キャラクターデザイン / 総作画監督」と呼ばれる作画における羅針盤というかリーダーというか、そういう存在だった。

 

これは今でも時折思うことだが、彼らは「もう作品が作れない」のだ。

当たり前すぎることだが、本当にそういうことなのだ。

 

でも同時に、彼らはこの作品を遺してくれた。

作品を見返せば、いつでも彼らの作風に触れられる。

 

2年生編のブルーレイはもう10回以上観た。

 

見れば見るほど、悔しくなることがある。

 

 

 

1年前期の現代宗教論の最終レポートでは、任意の作品に対しての宗教学的考察が認められており、僕は前々から「響け!」を題材にすることを決めていた。

 

「響け!」の表現技法や演出技法、舞台設定にはその考察をできるほどのチカラがあったのだ。

しかし、提出は事件後。

 

これではまるで、「事件があったから」このレポートを書いたと思われそうで、本当に嫌だったのを覚えている。

 

8月末、宇治にいわゆる聖地巡礼に向かったのも、6月あたりから計画してのことだった。

 

自分の京アニへの行動が事件とは無関係なところに端を発するのを理解されない状況を想像しては嫌になった。

 

全て妄想だと言われればそうなのだが、全ては受け取る側次第。

 

彼らの作品は、事件があろうがなかろうが、非常に高く評価されるべきなのだ。

 

 

今年の4月、「響け!」シリーズは5周年を迎えた。

そこに寄せられたイラストは、もちろん池田晶子さんのものではない、そのことにまた痛みを覚えたが、それでもシリーズは前進を続けている。

 

幸い、監督や一部スタッフは存命であり、過去のデジタルデータも火災を逃れた。

これからのシリーズの展望をゆっくりと待ちたい。

 

最初にも述べたが、とにかく、今日で1年だ。

 

Still dwell in deep sorrow、「未だ悲しみの中に」、僕が0時に更新したTwitterのプロフィールは、奇しくも京アニの八田社長が出したメッセージの中にあった。

 

彼らが不意に、希望で彩られていたはずの喪った1年を、僕はどう生きてきたのか、今日はそればかり自問している。

 

 

 

 

春、夢を抱いて 目標をかかげ 努力をはじめる

夏、その日々を誇りに思えるように。

                                ————池田晶子